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メッサーシュミット Bf 110 : ミニ英和和英辞書
メッサーシュミット Bf 110[ちょうおん]
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〔語彙分解〕的な部分一致の検索結果は以下の通りです。

: [ちょうおん]
 (n) long vowel mark (usually only used in katakana)

メッサーシュミット Bf 110 ( リダイレクト:メッサーシュミット Bf110 ) : ウィキペディア日本語版
メッサーシュミット Bf110[めっさーしゅみっとびーえふ110]


メッサーシュミット Bf110 第二次世界大戦前にドイツで開発され、大戦で活躍した双発レシプロ重戦闘機または多用途機。ドイツ空軍では当初「駆逐機」(Zerstörer)と称されており、「駆逐航空隊」に配備されていた。
1939年の第二次世界大戦開戦後より活躍するがバトル・オブ・ブリテンイギリス空軍により大きな損害を被り、戦闘機同士が戦う制空戦闘機としての価値は激減した。だがその後も双発が故の大きな積載力や火力と航続距離を生かして対地支援哨戒、そしてドイツ空軍の夜間戦闘機の主力として活躍。後継機になるはずであったMe210の開発失敗もあり、敗戦直前の1945年2月まで生産が続けられ、総生産機数は5,700機以上にのぼった。
なお、メッサーシュミット社の機体であるためMe110と呼ばれる場合もあり、飯山 (2004) によればそれが正式でもあるのだが、前身であるバイエルン航空機製造時代に開発が始まった機体はBfを冠するのが(少なくとも)日本では慣例であるため、本項ではこれに倣う(メッサーシュミット Bf109#名称 も参照)。
== 概要・開発経緯 ==
1934年秋、ドイツ空軍は当時世界的に流行の兆しを見せていた、爆撃機に随伴してこれを護衛でき、敵迎撃戦闘機を制圧、あるいは強行突破し強行偵察や地上攻撃を行い得る多目的長距離双発戦闘機(重戦闘機)を求め、"戦略重戦闘機開発仕様書"を発行し、空軍大臣ヘルマン・ゲーリングにより最優先開発機種として指定した。
この戦闘機の概念はゲーリングにより「駆逐機」(ツェアシュテーラー / Zerstörer)と命名された。駆逐機は長距離を飛行する燃料を搭載し、そして長距離を飛行するが故に航法士を要することから、また十分な武装を積載したいことから、双発かつ乗員は複数とされた。
要求仕様書は7社に配布され、フォッケウルフ Fw57、ヘンシェル Hs124、バイエルン航空機製造 (のちのメッサーシュミット) Bf110の3機で競争試作が行われた。双発機は単発機の2倍の馬力を持つため速度面で優位性があり、さらに燃料を多量に積載できるため航続力でも有利、重武装化も可能と考えられたのである。
要求性能は、最高速度は高度6000mで400km/h、上昇速度は高度6000mまで15分、航続距離は330km/hで2000km以上、前方に20mm機関砲2門を装備しさらに後方に防御用旋回銃塔に7.92mm2門、爆弾倉装備、と言うものであった。飯山 (2004) によれば、さらに三座機。これは当時の基準としては相当に厳しいものである。
フォッケウルフFw57はDB600(910馬力)を装備、全幅25m、全長16m、総重量8300kg、最大速度404km/h、乗員3名と言う双発爆撃機に匹敵するサイズの機体を作り上げ、1936年5月に初飛行した。ヘンシェルHs124はJumo210C(640馬力)を装備し、フォッケウルフよりは小型の、全幅18m、全長14.5m、総重量7200kg、最大速度435km/h、乗員3名の機体を用意、前方武装も動力旋回砲塔とし、1936年4月に初飛行した。両機とも乗員は3名。空軍の要求通り、電動銃座も備えていた。
だがバイエルン社は違った。メッサーシュミット技師は空軍からの要求を無視または軽視したのだ。「最小の機体に、最強のエンジン」と言うBf109の設計コンセプトを踏襲し、戦闘機としての性能を重視〔*>飯山 (2005) は装備すれば大型化が避けられない爆弾倉は無視した、と解説している。また本機をBf109の双発・重武装化であるともしている。これは後述する様に、他の文献でも見られる指摘である。〕。DB600(910馬力)を装備し、全幅16.8m、全長12.6m、総重量5700kg、乗員2名にまとめ上げ、1936年5月に初飛行した。前掲の2機種と比較するとその小型さがわかる。また、エンジンナセル、胴体、主翼などどことなくBf109の面影が見え、或いはBf109と機体設計の概念が共通している部分が多くあり、まるでBf109を双発化した様な威容の機体と仕上がっている。要求された爆弾倉は装備せず、尾部銃座も簡素なものを1門備えただけである。ただしさすがにBf110は設計要求と内容が違いすぎ、空軍内でも賛否両論が巻き起こった。そんな中、ウィリー・メッサーシュミットは政治力を発揮。交友関係にあったエルンスト・ウーデットにより航空機委員会に圧力をかけ、Bf110の試作も認可されることとなったと言った経緯がある。しかしさすがにこれだけ機体のサイズが違えば、Bf110の運動性の優位は明らかである。と言うよりは他の2社の機体は巨大すぎ、戦闘機としての適性を著しく欠く物であった。一方のBf110の方については、最高速度に至っては、当時のBf109Bをも上回る509km/hまたは510km/hを発揮しさえしている。飯山 (2005) によれば、ゲーリングはこの機体を大いに気に入り、「我が鋼鉄の横っ腹」などとBf110を大いに持ち上げ、逆にBf109を武装の少ないか弱い戦闘機と評し、また優秀なパイロット候補生をBf110に回すなどしたという。なお試作機であるV型では運動性能の不足、離着陸時の主翼の振動などが指摘されている。
こうしてBf110が採用され、最初の量産型であるA型が発注されたのである。もっともこの時点ではまだDB600エンジンの生産は進捗しておらず、Jumo210B(610馬力)を搭載したA型、Jumo210Gを装備したB型が少数生産されたにとどまっている。エンジンの出力低下などの理由によりA-0型の最高速度は430km/hにまで低下してしまった。その後も結局DB600の搭載は行われずDB601が搭載されることとなったが、それを装備した本格的な量産型C型が生産されはじめたのは1939年1月末からのことである。なお、本機は後継機となるはずであったMe210の開発の失敗により、1945年に至っても45機が生産されるなど、ほぼ大戦全般を戦い抜いた機体である。

本機はバトル・オブ・ブリテンで単発戦闘機との満足な空戦が行えなかったため低い評価を受けがちであるが〔*>青木 (1995) によれば、そう言った向きはたった一度の敗北による不当な評価であると言う。〕、その実、約6000機近くが生産され哨戒、地上攻撃、そして夜間戦闘機としてなど、各地で大いに活躍した、ドイツ空軍にとってなくてはならなかった機体であり、軍用機としては成功作と評価できる。
なお、Bf110全体の生産数は諸説があり、田中らおよび矢吹らによれば合計で5873機。野原&田中または野原によれば6150機。松葉によれば5762機、青木 (1995) によれば6170機。おおよそ6000機前後である。

抄文引用元・出典: フリー百科事典『 ウィキペディア(Wikipedia)
ウィキペディアで「メッサーシュミット Bf110」の詳細全文を読む

英語版ウィキペディアに対照対訳語「 Messerschmitt Bf 110 」があります。




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